橋下市長の“慰安婦”発言は問題ナシ?
橋下氏が出演した「たかじんNOマネー」を、どう判断するか!
橋下徹大阪市長が6月15日、テレビ大阪の討論番組「たかじんNOマネー」に生出演し、また物議を醸し出しています。
私は番組をタイムリーで見ていたわけではありませんが、翌日You Tubeで目につき、拝見しました。
見ていて私が一番驚いたのが、
「橋下市長の“慰安婦”発言をどう思う?」という問いに対して、視聴者の電話投票で、80%が「問題ナシ」と、答えたことです。
番組内のコメンテーター全員が「問題あり」と判断したことに対し、視聴者は真逆の結果で答えたことになります。
橋下氏はこの結果を受け、
「有権者は冷静ですよ。小金稼ぎのコメンテーターとは違う」
と発言し、番組終盤になって水道橋博士が「小金稼ぎと言われたんで今日で番組を降ろさせていただきます!」と、番組を途中で退座するという一幕もありました。
「小金稼ぎのコメンテーター」とは、橋下氏らしい皮肉ですが、それはともあれ、終始ふてくされた顔で、礼儀や誠意のまったく感じられない橋下氏に対して、視聴者の80%が理解を示すことに、私は不思議でなりません。
「私と同じ事を言っている政治家が、ひとたび問題になれば、卑怯にも何も言わず黙っている!」
「私は日本で言ったことは外国でも言うし、外国で言ったことは、日本でだって言う!」
たしかにそういう橋下氏の言葉を聞いていると、たとえ自分が批判をあびようとも、言うべきことは、ちゃんと言い続けるという、信念を貫く姿に見えます。
事実You Tubeに寄せられたコメントを見ると
>橋下同代表は話に筋が通っているし
>橋下さん、日本のために頑張ってくれてありがとう。家族で応援しています
>橋下には頑張ってほしい。朝日や毎日が血相変えて攻撃してくるだろうけど、日本人はみんな支持してるから。
など、橋下氏に対して肯定的なものが多くみうけられます。
しかし、こんなに簡単に橋下氏を理解していいのでしょうか?
「慰安婦発言」の内容に関しては、人それぞれ様々な意見や解釈があります。
私は「慰安婦」に関しては知識不足ですので、発言内容に関しての是非はこの記事では申し上げられません。
しかし、「慰安婦問題」を発言する「橋下氏の態度」については、一人の人間としてとても憤りを感じます!
というのも、橋下氏には人や国に対する「思いやり」や「敬意」というものを、まったく感じられないからです。
私は発言内容以前に、橋下氏を人間として信用できません。
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北海道大学大学院教授の山口氏は、日本の政治家の「人間性の劣化」を嘆いている一人です。
氏は、欧米の政治論争は、イギリス議会では、議員同士が論議するとき、相手にHonourable(オノライブル)「尊敬すべき」という敬称をつけ、アメリカ議会では、議員を男性であれば○○州選出の紳士(gentleman)と呼ぶことを例に、たとえ主張が違っても、同じく国民を代表して議会で国政を論じるものとして、互いに耳を傾け合うという関係が伝統的に存在しており、それが呼び名にも現れていると指摘しています。
ところが日本の場合は、大きな声で相手を罵倒したり、けんか腰で攻撃し、相手を言い負かすようなことが、論争に勝ち、注目を集めるための方法だと、政治家を含め、多くの人が思っています。
そこには、たとえ主義主張が違えども、相手は国や国民のことを考えて、一生懸命にやっているのだと「敬意」を持つ文化は存在しません。
山口氏は、そのように政治家の品質を低下させた原因のひとつが、「テレビの討論番組」にあると言われています。
他者を罵倒し、本音をぶちまけるという論法は、本音を隠してあたりさわりのないことを論じるよりも、番組としては面白いものでしょう。
しかしそれは、日本のメディアの中だけで許容されるもので、政治家が公の場でもその調子で行い、それが英訳されて外国の政治家、有識者の目に入ればどう映るでしょうか。
日本の政治は、野蛮人が行っているとみなされてしまいます!
飲み屋という限られた空間で、お酒を飲みながら上司の悪口をぶちまければ、それなりに盛り上がり、スッキリするでしょう。
しかし翌日、飲み屋の勢いのままで、上司に向かって意見するバカはいません。
会社においては、上司への敬意を払いながら、「会社を良くしていくための意見」として発言するのが当たり前です。
そんな当たり前のことが、日本の代表と言える政治家がわからず、それを国民が容認するとしたら・・・・・
日本人自体の人間性も疑問視されることでしょう。
日本は今、その瀬戸際に立っているのです。
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ともあれ番組内で、不機嫌な顔をして、人を小馬鹿にしたような論調で、自分の本音をぶつける橋下氏の態度には、国や人に対する「敬意」など、まったく感じられません。
日本のテレビ内なら許されても、果たしてこの番組が英訳されて海外で放映されたら、どうおもわれるでしょうか。
もし逆の立場で、アメリカの政治家が「日本への原爆投下は、戦争を終わらすための必要悪だった」と、主張していたらどうでしょうか。
「アメリカが原爆を使用しなくとも、他の国が使用していただろう」
「原爆で日本が降伏しなかったら、戦争はドロ沼化して、もっと多大な犠牲がでたに違いない」
「だから核兵器も、時には必要であり、原爆の投下は正しかったのだ」
原爆の使用さえ、国により人によって、様々な意見があります。
このような論争がアメリカで展開されているとしたら、日本はおだやかではないはずです。
そのうえその政治家が日本に対して、
「原爆のおかげて戦争を終わらせてあげたのだ」
「日本だって、アジアでかなりの蛮行を行っている。アメリカだけが批判されるのはおかしい」
「日本人だけが、被害者面しないでほしい」
などと、公の場で公言したらどうなるでしょうか。
そして広島県知事に対して、
「原爆資料館の隣に、日本の蛮行資料館も作るのが道理だ」
などといったら、主張の中身の前にその人の人間性を疑い、決してその政治家を許せないでしょう。
こんなことが起これば、日本とアメリカの国家間は、急速に悪化するに違い有りません。
そのうえその政治家が
「事実を言ったまでだ」
「アメリカで言ったことは、日本にだっていう」
などと国内のテレビで発言し、それを見たアメリカの視聴者が
「筋が通っている。よくぞ言ってくれた!」
と、80%の人が応援しているとしたら・・・・
とてもではないが、アメリカ人を信用などできないでしょう。
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確かに「慰安婦」と「原爆」では、問題が違います。
しかし多大な苦しみを味わった人がいるという事実は同じであり、その苦悩の大小は、簡単には決められません。
「慰安婦」「原爆」といっても、人により認識や考え方がそれぞれ違うのは当然でしょう。
要は、中身の違いどうのこうのではなく、深刻でデリケートなことに対することは、特に「ものの言い方」が、大事であるということです。
たかが「言い方」かと思うかも知れませんが、人間は理性だけでは生きていけない「感情の生き物」であるいじょう、「言い方」はとても重要です。
たとえ同じ内容であっても「言い方」ひとつで、相手への伝わり方は180度変わってくるのです。
ものの「言い方」にこそ、発言する人の「心の思い」や「人間性」が現れるのではないでしょうか。
橋下氏に慰安婦で苦しんだ方々への同苦の思いがあり、戦争を憎み、平和を願う気持ちがあれば、ものの言い方はもっと違ったはずです。
そういう人間として最も重要な思いや、人に対する「敬意」がまったく無いことが、橋下氏の一番の問題だと私は思います!
本音をズバズバ言うことが、必ずしも男らしさや潔さとはなりません。
人間性が卑しく、人に対する敬意が欠落した者が言う言葉は、単なる自己主張であり、暴言になってしまうでしょう。
心の根底で人々の幸福を願い、人間性が豊かな人であってこそ、本音を叫ぶことが潔く、信念を貫いていると言えるのです!
「橋下市長の“慰安婦”発言は問題ナシ」
そう答えた視聴者は、もう一度大きな視野に立って、考え直すべきではないでしょうか。